今、なぜあなたはこのページを読み始めたのか?大学の授業を知りたいか、心理学に興味があるか、前ページからの惰性で読んでいるか...理由は何であれ、もうあなたは読み始めてしまっているのです。これも何かのご縁です。心についてちょっとだけ考えてみましょう。
さて、「心はどこにあるのか?」という問題です。これは場所と存在の両方の疑問が含まれています。では、いきなり正解を言います。「正確に言えば、誰にも分からない。以上。解散!」。これが冗談のようで冗談ではないかもしれない。
まず「場所」として心はどこにあるのか?これを読んでいる人で左胸辺りを指す人はいないでしょう。おそらくそこにあるのは心臓です。理科か保健の授業で、心臓は身体の血液を循環させるポンプの役割であると学び、それが心であるとは習わなかったはずです。最も多い答えは、頭を指して脳の中にあるという答えでしょう。生物か何かの授業で、脳内では電気信号によってシナプス間で神経伝達物質のやり取りが行われ、情報が伝達されていると学んだからです。では、脳のどの部位が心なのでしょうか?もし明確な心の部位があるとすれば、手術して他人と心を交換することが可能になるけど...そんな部位があるのか?ん~分かりませんね...
では「存在」として心はあるのか?ここで不思議なことに気がつきませんか?ここまで我々には心が当然あるものとして話を進めてきましたが、本当に心があるのでしょうか?私はまだ自分の心を直接見たことはないし、匂いも、味も、色も、形も知りません。医療技術が発展した現代でも、レントゲンやMRIで心の形を映し出すことができていません。UFOや宇宙人ですら、(真偽は別として)写真や映像があるのに...正直、写真ですら見たことがないものを信じろというのは無茶な話だと思います。それでも我々は日常生活にある喜怒哀楽の経験を通して、心と呼ばれる実体があると信じている。でもそれは心なのでしょうか?思考とは違うのでしょうか?ん~分かりませんね...
結局、心の「場所」も「存在」も未だ明確にされていません。そして、ここまで読んで、「分からないということが分かった」のです。ここが大事なポイントです。我々は興味がある事柄に対して、分からないことは知り(学び)たくなり、勉強(研究)に繋がります。これは知的好奇心と呼ばれるものかもしれません。あなたがこのページを読み始めた理由は分かりませんが、そこには何らかの興味があり、知的好奇心が刺激されたのでしょう。あっ、気がつきました?知的好奇心にも「心」という字が入っていますよね。知的好奇心はどこにあるのでしょうか?ぜひ志學館大学で、自分なりの答えを見つけてください。
かつて鹿児島の地では、日本古典文学が重要な役割を果たしていました。それはどういうことか、説明しましょう。
江戸時代、薩摩藩が南方の琉球王国を支配下に収めてから、薩摩と琉球の間では多くの人々が船で行き交い、盛んに交流が行われていました。当時の琉球は、日本語でありながら本土の言語とは大きく異なる琉球方言が用いられ、独自の文化が花開きました。そうした状況で琉球の人々が本土の人々と親睦を深めるためには、本土の言語に通じるだけでなく、和歌などの教養も求められます。そのため、琉球の上流階級の王族や士族たちは、当時の本土では一般教養であった『源氏物語』や『百人一首』など、いわゆる和文学も学んでいたのです。その際に教師役となったのが、主に薩摩の知識人たちでした。彼らを仲立ちとして和文学が琉球へと広まり、その教養を活かして和歌を詠んだり会話を楽しんだりすることで、琉球と本土の人々は親睦を深めていったと言えます。
また、「江戸上り」も行われました。それは、琉球の使者が徳川幕府の将軍に謁見するために遠く江戸へと派遣されることで、徳川将軍の代替わりや琉球国王の即位の際に実施されます。明和元年(1764年)に江戸上りをした読谷山王子朝恒は和歌に秀でており、旅の道中での詠作が現在に伝わっています。その中に、富士山を遠望して詠んだ二首の歌「思ひきや田子の浦辺にうち出でて富士の高嶺の雪を見んとは」「人問はばいかが答へん言の葉の及ばぬ富士の雪の白妙」があります。朝恒は、雄大な富士山とそこに降り積もる真っ白な雪を目前にした驚きと感動を、自ら学んだ和歌によってこのように表現しました。南国の琉球からはるばる旅をしてきた朝恒の気持ちを、これらの歌から想像してみてください。
ところで、朝恒はある有名な歌を念頭に置いてこの二首を詠んでいるのですが、分かりますか。『百人一首』の山部赤人詠「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」です。朝恒は、琉球人でありながら和文学を学んだからこそ、千年以上も前の世に山部赤人が見たのと同じ風景を前に、自らが今まさに赤人の追体験をしている喜びを実感して和歌に表現することができたのです。
朝恒と同じように、現代の私たちも日本古典文学を学ぶことにより、かつての時代を生きた人々の思いを知ることができます。悠久の歴史をたどって様々な作品を読み解き、いにしえの世界に思いを馳せることは、とても意義のある学びではないでしょうか。かつて文化の中継地だったこの鹿児島で、皆さんも時空を超えた探究をしてみませんか。
コロナウイルスの流行により、対面での授業ができなくなり、オンラインでの授業が行われるようになりました。同時に、日本のデジタル化の遅れが明らかになり、小中学校では異例の速さで1人1台の情報端末整備が行われました。今回、高校は対象に入っていませんが、今年度入学してきた1年生は中学校で端末を利用していたという経験がありますので、今後は高校でも情報端末の利用が進むことでしょう。
オンラインでの授業が行われるようになると、国内のどこに住んでいても、海外に住んでいても関係ないということになりました。私は、英語の授業を担当していますが、私の授業でも海外に住んでいる人に参加してもらうようにしました。
昨年度は、異文化理解演習という授業で、Web会議システムでタイの大学とつなぎ、タイの学生5人と本学の学生18人で英語でディスカッションを行いました。お互いの顔を見ながら、大学での生活、アルバイト、好きな音楽・アニメ、休日の過ごし方などの身近なことから、両手を合わせる挨拶のしかた、微笑みの国と言われるタイの人々の微笑みの意味などの文化的な違いまで、多岐にわたって意見を交わしました。
このような授業は、交流協定を結んでいる外国の大学どうしで入念な準備のもと行われていましたが、オンラインの環境が一気に整備されたことで、比較的手軽に行うことができるようになりました。
ところで、なぜ英語圏ではなくタイだったのでしょうか?それは、英語を使う相手は、英語圏よりも英語圏以外の人の場合が多いからです。アメリカ、イギリスなど母語として英語(ENL)を話す人は4~5億人いますが、インド、フィリピン、シンガポールなど第2言語として英語(ESL)を話す人や、日本、中国、ヨーロッパ諸国など外国語として英語(EFL)を話す人の方が、ENLの人口を遥かに上回っています。また、日本の貿易相手国の上位は、1位中国、2位アメリカ、3位韓国、4位台湾、5位タイとなっています。ENLよりもESL、EFLの人々と英語を使う機会が多いのです。
コロナウイルスの流行で、私たちは海外へ行くことも、海外から外国人を迎えることもできなくなりました。一方で、オンラインでは簡単に海外とつながることができるようになりました。直接会って話すことに勝ることはないと思いますが、今後は違った形で英語を使う機会が増えてくるのではないでしょうか。
2020年6月、イギリスのブリストルという港町で銅像が引き倒され、海に投げ入れられるという事件が起こりました。倒されたのは、17世紀にこの町で生まれたエドワード・コルストンという人物の像です。銅像は、19世紀末、恵まれない人々のために私財を投じて町に貢献したコルストンの功績を顕彰して、町の中心部に建てられました。
慈善活動で功績を残した「偉人」の像がなぜ倒されたのでしょうか?問題は、彼が私財を蓄積した方法にありました。コルストンのもう一つの顔、それは「slave trader(奴隷商人)」であったのです。コルストンが生きた17世紀から18世紀にかけ、イギリスは西アフリカで黒人奴隷を買い取り、砂糖生産の拠点であったカリブ海域などに労働力として売り渡す大西洋奴隷貿易で利益をあげていました。ブリストルは、奴隷貿易の拠点でした。黒人奴隷は「黒い積み荷」とよばれ、不衛生で狭い船内に鎖でつながれて詰め込まれ、アフリカからカリブ海へと移送されました。
では、なぜ、そのような非人道的な貿易で富を築いた人物の銅像が建てられたのでしょうか?それは、19世紀の人々がコルストンの「奴隷商人」としての過去を忘れ、慈善活動家としての彼の姿のみを記憶にとどめたからでしょう。ブリストルの住人が白人のみである限り、「奴隷商人」としての彼の側面に光が当てられることはありませんでした。
しかし、第二次世界大戦後、状況は変化します。1950年代以降、ブリストルを含むイギリスの都市には植民地であった地域から移民が入ってきました。移民たちの中には、黒人奴隷の子孫もいました。彼らにとって、コルストンは先祖をアフリカから連れ去った非人道的な「奴隷商人」に他なりませんでした。同時に、奴隷貿易という暗い歴史を切り捨てた「白人中心」の都合のよい歴史認識にも、批判の目を向けるようになります。コルストンの銅像をめぐっては、1990年代にも、銅像に「奴隷商人」という抗議の落書きがされる事件が起きていました。2020年の銅像引き倒しは、アメリカで起きた黒人男性殺害事件に端を発した人種差別に抗議するBLM運動がイギリスに波及して起きたものでしたが、ここでも参加者は「白人中心」の歴史認識を象徴するものとしてコルストン像に異議を唱えたのです。
コルストンの例は極端かもしれません。ただ、歴史上の人物を見るとき、私たちはその人物のありのままの姿をみるのではなく、特定の部分に光を当てがちです。違う方向から光を当てれば、異なる姿が浮かび上がることは、歴史学ではよく起こります。自分がどの方向からその人物を見ているのか、「偉人」とする前に、少し立ち止まって考えてみませんか。