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教員一覧

Pick Up:人間関係学部 心理臨床学科 教員

中村 年男 准教授 (社会福祉学/児童家庭福祉):社会福祉士

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私たちが住む地域には、心の病気や障害により「生活のしづらさ」を感じながらも、懸命に生きている人たちがいます。そして、そのような人たちへの支援には多くの人が関わります。

例えば、本学科でいうと、心の面では心理を中心に学んだ公認心理師や臨床心理士が、生活の面では、社会福祉を中心に学んだ精神保健福祉士が関わります。皆さんのなかには、心理はイメージが湧くが、「社会福祉」はイメージが湧きにくい人も多いと思います。少しだけ紹介しておきます。

突然ですが、「皆さんは日々、どのような社会資源と結びついていますか?」私たちは、日常生活の中で、社会資源との結びつきを意識することはありません。しかし、よく考えてみると、私たちは多くの社会資源と結びつきながら生活しています。例えば、「お金が欲しい」というのであれば、「会社」という社会資源と結びつきます。「公認心理師になりたい」「精神保健福祉士になりたい」というのであれば、「学校」という社会資源と結びつきます。「体調が悪い。治してほしい」というのであれば、「病院」という社会資源と結びつきます。つまり、私たちの生活は複数の社会資源との結びつきなしには成り立ちません。

人間には、こうした「○○したい」「○○になりたい」という「要求」が7つあると、社会福祉学者の岡村重夫は述べています。それは、(1)社会関係・社会参加の要求、(2)経済的安定の要求、(3)職業安定の要求、(4)保健・医療の保障、(5)家族安定の要求、(6)教育の保障、(7)文化・娯楽の機会です。「安定した生活」というのは、この7つの要求が社会資源と結びつくことで、満たされている状態のことです。

一方で、病気や障害により、7つの要求の一部が満たされなくなることがあります。例えば、病気や障害により、「会社を退職し、収入が無くなってしまった(経済的安定の要求が満たせない)。それにより医療費が払えない(医療の要求が満たせない)」「学校を中退し、夢を諦めざるをえない(教育の要求が満たせない)」「大好きだった旅行にも行けなくなってしまった(文化・娯楽の要求が満たせない)」などです。つまり、病気や障害により、社会資源との繋がりが絶たれ、個人の要求が満たせなくなり、それが「生活のしづらさ」として出てきます。これを「社会関係の不調和」といいます。その不調和を取り除くのが社会福祉の役割になります。つまり、その人の生活問題を把握し、社会資源等と結びつけることで要求を満たし、自分らしい生活を取り戻してもらうのが、社会福祉の仕事になります。

本学科で、心理系科目を中心に社会福祉も学び、一人ひとりの心と生活をサポートできるプロフェッショナルを目指してみませんか?


人間関係学部 心理臨床学科 の教員一覧

Pick Up:人間関係学部 人間文化学科 教員

【日本語日本文学コース】西川 ゆみ 講師 (中国文学/六朝文学)

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「先生はどこのコースですか?」着任してからよく尋ねられる言葉です。「日本語日本文学コース」と答えると、怪訝な顔をされます。中国なのに?という顔です。私の専門は中国古典文学です。中国のことを教える先生が、なぜ日本語日本文学コースに所属しているのでしょうか。

これは、なぜ中国古典文学が、日本語日本文学の範疇に入るのか、と同じ問いです。中学高校では、国語の時間に中国古典である漢文を学びます。私たちの国語は日本語ですから、それを学ぶのに中国のことを学ぶのは、普通に考えたらおかしな話です。ですが、これは日本語の生い立ちと「中国」が深くかかわっているからこそ、今日も国語の時間に中国の古典を学んでいるのです。

まずは文字です。日本語は中国から漢字を受容し、ひらがなもカタカナも漢字から生まれてきたものです。それでは表記する文字だけでしょうか。もし漢字を捨てて、すべて日本独自の言葉(和語)で話そうとすると、困ったことになるのです。試しにやってみるとすぐわかるでしょう。例えば「信じる」。この心理の活動を、日本人は日本独自の言葉では言い表すことができません。「中国」は、表面の文字だけでなく、日本語の中身にまで深く根を張っているのです。

次に、訓読と呼ばれる中国古典を日本語に翻訳する営みは、漢文訓読体として一つの文体を形成しました。また近代以前の日本人は、漢文や漢詩を書いて互いに意思疎通をしていたのです。近代に入ってからは、中国古典の知識を用いて西欧の文化思想を翻訳して取り入れました。今日、私たちが日本語を使って、大学という高等教育機関で学問ができるのは、中国の言葉・文化思想を取り入れ、それらを自身のものにしてきた背景があればこそです。

3年生の授業で、芥川龍之介「杜子春」の題材となった中国古典小説「杜子春伝」を読んでいます。両作品にはクライマックスに大きな違いがあるのですが、そのほかにも登場人物の受け答えやものの考え方に、中国と日本のメンタリティーの違いを読み取ることができます。同じ漢字を使用し、日本語を支えてきた「中国」は、やはり日本ではない、異なる文化を持つ存在なのだと改めて気づかされます。翻って、日本語という言葉は、自身の中に異文化を内包する極めて興味深い言葉なのだとも思います。ここで、冒頭であげた疑問の前提にある「日本と中国は違うはずだ」という意識が、とても大切です。みなさんがそうした意識を持って、日本の中の「中国」に向き合えば、より深く日本を理解し、さらには中国の人々と良好な関係を築くことにもつながっていくと思うのです。

【英語英米文化コース】高根 広大 講師 (英語文学/英語圏文学)

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"But men may construe things after their fashion /Clean from the purpose of things themselves."
(だが人間はものごとを自分たちのやり方で解釈し、それ自体が本来示そうとしていた意味を遠ざけてしまうものだ。)

これは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』第1幕第3場の、シセロー(ラテン語読みで「キケロ」)の台詞です。古代ローマに起こった異常現象に対して、人々は不安から、さらなる異常事態の予兆であると恐れおののきます。引用したシセローの台詞は、これを受けたものですが、もっと広い意味で解釈することができるでしょう。たとえば、自分に都合の良い解釈をして、誰かを誤解したり、あるいは逆に、誤解されたりといった経験は、誰にでも覚えがあるはずです。わからないからこそ決めつけてしまうこともあれば、自分を正当化するために、誰かのせいにしてしまうこともあるでしょう。

今、私たちが生きている世界は、急速に国際化し、否応なしに、多様性に目を向けることが必要となっています。同時に、コロナ禍の昨今では、不安や恐れから人々が分断され、誤解や偏見があふれてしまっています。これまで以上に、私たちは自己を知り、他者を知ることが必要になってくるでしょう。文化や文学を学ぶことは、その足掛かりとなります。たとえば、シェイクスピアの作品は、16世紀末から17世紀初頭にかけてのイギリスという、私たちとは時代も地域も異なる社会で作り出され、私たちとは異なる言葉で、異なる文化や価値観を内包しています。さらに、古代ローマを題材とした『ジュリアス・シーザー』などは、異文化から異文化を見つめる作品であると言えます。それでいて、冒頭の引用にあるように、私たちにもよくわかる真理も示されているわけです。

現代は情報化社会でもあり、マスメディアだけでなく、インターネットやSNSを通して、個人が情報を発信したり、加工したりすることが容易になっています。全体の一部だけを提示してミスリードすることがないよう責任が求められますし、ミスリードされないように気をつける必要もあります。私たちが生きる今を、どう読み解くか。英語圏の文化や文学を広く学びながら、志學館大学で一緒に考えてみませんか。ところで、このようにお誘いする私自身、『ジュリアス・シーザー』という作品のほんの一部を切り取って、話題に合わせてご紹介してしまいました。しかも、演劇は言語や文字だけではなく、視覚にも聴覚にも訴える総合的な芸術です。誌上では語りつくせない文学作品それ自体の魅力について、続きは大学生活の中で探ってみてはいかがでしょうか。

【歴史地理コース】原口 泉 教授 (明治維新/薩摩藩/西郷隆盛)

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今、日本という国は、世界史的に大変な時期を迎えています。第二次世界大戦後、半世紀以上にわたって勝利と繁栄を誇ってきた資本主義体制が、いたるところで限界や破綻を露呈し、またそうした体制崩壊と無関係といえない地球規模での環境悪化や自然災害、新型ウイルスのパンデミックなどが広がっています。こうした世界的な危機を背景に、日本の前途にも払いがたい黒雲が立ち込めているのです。

世界史的な危機の中で、日本の選択が迫られた歴史的時期としては、幕末から明治維新後の時代が、まさに現代の日本に重なります。この危機の中で、列強に負けない日本の経済界、実業界を作り上げ、後世の経済成長にまで影響を与えたのが渋沢栄一でした。

幕末から明治、大正の激動期にピンチをチャンスに変え、「日本資本主義の父」と呼ばれるようになった渋沢の考え方や行動原則は、時代を越えて通用するはずです。幸いにも渋沢は、その経験や思想のエッセンスを『論語と算盤』という一冊の分かりやすい談話記録で残してくれています。論語とは道徳、算盤とは経済のことで、経営には両者が揃っていなければいけないという主張です。この書を読むと、ここ10年でさらに際立ってきた日本の危機を救うための教訓が、随所に見出せます。

ここ10年といえば、アメリカ流の新自由主義や市場原理主義の誤りが指摘され、いわば資本主義の限界を認める風潮が現れたことが挙げられますが、渋沢の『論語と算盤』は、すでにこうした欧米流資本主義の限界を予見していた節がうかがえます。

渋沢は、生涯に500近くの企業の育成に関わった一方で、それをしのぐ約600の社会公共事業や民間外交にも尽力しました。東京商工会議所が挙げるリストによれば、渋沢が設立に関わった481社うち186社が今も存続しています(2019年時点)。栄枯盛衰が当たり前の経済界で、設立した会社の4割近くが『論語と算盤』でも主張している「永続性」を備える企業に育っているということです。

このことを現代社会に適用すれば、まさに2015年に国連が掲げた次世代目標、SDGs(持続可能な開発目標)を叶えるものと言ってもいいはずです。

これこそまさに「論語(道徳)」と「算盤(経済)」の並立、合致でしょう。そこには、今苦境に立っている資本主義を、力強く再生するヒントや知恵が含まれているのではないでしょうか。


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